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東京都墨田区明治通り沿いに大きな商店街がある。キラキラ橘商店街といって、多くの商店が立ち並び昭和の下町の雰囲気を残しつつ今も尚栄えている商店街だ。高齢化社会が進む中この商店街が生き残っている一つの要因として、若い人々が新たに店を開いて人が集まっているというのが挙げられる。商店街入口のすぐ横、明治通り沿いの店「爬虫類館分館」というカフェ&バーは日替わりで店長もメニューも変わる風変りなお店である。日替わり店長もそのお客さんも商店街の近所に住む若者が多い。

 そして商店街をまっすぐ進み八百屋の角を曲がり路地を少し歩くと一軒のお店がある。そのお店は4 bonjour‘s partiesというバンドのメンバー、灰谷歩さんと小畑亮吾さんの2人が空き家をリノベーションして作った六畳ほどの広さのシェアカフェである。灰谷歩さんは「ムームーコーヒー」でコーヒーをメインで担当している。小畑亮吾さんは「サテライトキッチン」としてハーブーティーをメインで取り扱っている。通称「ムーサテ」と呼ばれるこのお店は地元の人々に、カフェ好きな人々に、そして後述するがけん玉好きにとても愛されている。

 今回私はムームーコーヒーの店主である灰谷歩さんに生き方や働き方についてインタビューをした。あえて店内の内装や雰囲気について細かく記さないが、以下の文章を読んで店内の想像が容易にできるようであれば幸いである。

 

 

 

 

 

まず最初にムーサテを始めたキッカケを教えて下さい

 

 

コーヒーは元々好きでバリスタになりたいと思ってて。2009年から2011年の3年間はオーストラリアのメルボルンにワーキングホリデーに行ってたんだよね。メルボルンがコーヒーの街だって後から知ったけどメルボルンの人たちの働き方?ライフスタイルが凄く好きで気に入ったのね。メルボルンの人たちは朝が早くて夕方の5時にはしっかり仕事を終えて夜の時間は自分や家族の為に使う人が多くて。メルボルンに居たときはちゃんとバンド活動してたから夜は自分の作曲活動とかライブを観に行く時間に充てたい、このライフスタイルがいいと思って。超イケてるお店ではなかったけどメルボルンバリスタとして仕事が出来て日本に戻ってもバリスタの仕事をしたいってのがあったね。

 2011年に日本に帰ってきて、オーストラリア人がプロデュースするお店で働いていたんだけどすぐに辞めちゃったんだよね。オーストラリア人がプロデゥースしてもどうしても日本式になってしまうところがあってね。半分、いや9割方は好きだったんだけど残りの1割の日本のルールで納得できなかったんだよ。やっぱり長く働けるのは個人でやってる好きな場所だったんだよね、個人経営のCD屋とかスタジオとかね。独自のルールがあっても納得できて働けたんだよ。大きな組織じゃうまくハマらないなぁってのと、でもバリスタの仕事をしたいなぁってのがボヤっと出てきたタイミングで、メルボルンでの繋がりで分館の店長と仲良くなってね。それからこのキラキラ橘商店街に出入りするようになるの。分館に2か月に1回約1年計6回くらいライブをしに行ったね。別にライブをしに行ったときは特に素敵な街だとも思わなかったかな。でも分館での1日店長ってのには凄く興味があったんだよね。もう既に分館にはコーヒーをメインでやってる人が居たからオレの入る隙は無いなって思って。でもそんなとき同じバンドメンバーがキラキラ商店街の空きの物件を紹介されて、そこで雑貨屋を開こうかなぁって話してたんだよね。いや待って、その物件オレに紹介して!なんならオレがやりたいって話して。そして同じメンバーだった小畑君もこの話に乗って一緒にシェアカフェを開くことになったかな。ワーホリから帰って1年半くらいの2012年12月に空き家の物件を契約したね。

 

 

商店街に新しくお店を改装してオープンするにあたってどうでしたか?

 

 

 元々あった民家をリノベーションし始めたのが2013年の1月の半ばかな。普通にやっばそろそろ工事しないと家賃勿体ねぇーって気持ちで始めてね。オレは派手な目に見えるような成果のでる工事を中心に担当してたね。反対に小畑君はお店の細かいところの作業をやってくれて、ときにはここの2階に寝泊まりしながら作業してたけど楽しかったね。そして2013年の4月に無事オープンしたんだよね。オープンしても商店街の人々も受け入れてくれたし、分館とも上手な付き合いが出来たよね。分館のお客さんがこっちに来てくれたり逆にこっちのお客さんを分館に流したりして。オープンしても商店街の近所の人が来てくれてね、1回もビラ配ってないのにね。全部クチコミだったんだね。

 

 

リノベーションしたカフェとしてオープンして商店街以外のお客さんは来てましたか?

 

 

 最初の1年はお客さんがいろいろと来てくれたかな。ラッキーなことにCafe Sweetsっていう専門誌に1年も経たずに取り上げてもらってしかも表紙だったんだよね。そのタイミングも良くて、2013年くらいから東京に多くのカフェが出来てね。でも下町にはまだ

少なかったから簡単に目を付けてもらって、アンテナを張ってるカフェ好きの人に来てもらったかな。ウチはラテアートもやってるからそれ目当てで来る人も多くて。

 

 

 

 

ムーサテと言えばけん玉も販売しているお店としても有名ですが、ムーサテがけん玉を始めた理由ってなんですか?

 

 

 2014年の春か夏くらいに、シマヲ君ていう近所に住むお客さんがお店にけん玉を置いて行ったのね。普通の日本けん玉協会公認の赤いけん玉。でも公認のしっかりしたけん玉だから民芸品のよりしっかり遊べて、仲間内で持ってたのね。でもそんな中シマヲ君がけん玉のワークショップを開くというのでオレもお客さんとして参加したのね。そこでけん玉を10人以上でやったのが楽しかったのと、新しい海外のけん玉のスタイルを観てかっこいいと思ったのね。元々動画で見てストリートカルチャー寄りのけん玉を知ってたけど当時はチャラいと思ってさ。オレはアメリカけん玉なんていらないと思ってたけど、ミニゲームでオレが1抜けして景品のけん玉を選べたのね。その景品に多くの海外のけん玉が置いてあって中でもDeal with itとKENDAMA USA っていうブランドで迷って、結局高そうなUSAを貰ったんだけど後からDeal with it の方がレアなけん玉だってわかって余計に欲しくなったんだよね。余りに欲しすぎて国内で買えるか探したんだけどオレが欲しいのは売ってなくて困ってたら、あれ待てよ?オレお店やってんじゃん、仕入れられるじゃんってなってそこからけん玉も置くようになったかな。それが2015年の1月とかじゃないかな。

 

 

けん玉も遊べるコーヒー屋ってユニークですよね。ボクもけん玉がキッカケで訪れたワケですけどね(笑)

 

 

 店の目の前が空き地でそこをけん玉基地として遊んでたら多くのけん玉好きが遊びに来てくれたかな。やっぱり普通のカフェよりは遊びが多いカフェで常に取り入れてたね。2階でお客さんと人狼ゲームしたりお店に謎を仕掛けて脱出ゲームみたいなことをやったりね。空き地もけん玉をやる前は卓球台置いて卓球してたからね。でもけん玉が1番ハマって長―く火がついてるかな。自分が楽しいと思ったことは周りにも巻き込んで楽しむスタイル

だからね。

 

 

では歩さんの働き方、人生の考え方についてお聞かせください。

 

 やっぱオーストラリアは大きかった。別にオーストラリアで生き方が変わったわけじゃないんだけど背中は押された感じするよね。なんか今まで、オレはこんなんで大丈夫かなーって思ってたのがオーストラリアで言ったらオレ大丈夫どころか、むしろ日本人的な神経質なところあるんだなってわかったし、オレ細かいこと考えてるんだなって。ジャングルに住んでる人砂漠に住んでる、人オーストラリアに住んでる人日本に住んでる人は結局皆同じ「生きてる」で、日本は豊かな国のハズなのにこんなに悩みがあるんだろって。そうなってくると生き方というか価値観の持ち方が大事かなって思うね。じゃあ1人でメルボルンみたいな生活してみようってここ始めたからさ。ま、メルボルンがここまで緩いかっていうと話は別だけどね。オレが感じたメルボルン的な生活って意味ね。自分が観て感じた価値観でやってみよう、そんな感じすね。

 

 

 

 最後に今の生き方、どうですか?

 

 

 

やっぱ自分のやりたい生き方が出来てるからこの4年間楽しいよ。理想の生き方とお金を天秤にかけたら自分の生きたいように生きたいってのが強くて。お金があれば尚いいんだけれどしたい生活ができているから満足です。お金以外はね(笑)

 

 

 

 

 

 灰谷歩さんは現在、ムーサテの50mほどの距離に新たな物件を借りてファラフェルサンドという中東料理を取り扱う店舗を開くため、また空き店舗をリノベーションして準備をしている。近所の人々にはサンドイッチ屋が出来るという誤報が飛び交ってるらしいけれど、そんなことをモノともせず特に大きなプランも無く、オープンしたらなんとなく考えるらしい。そんな灰谷歩さんの生き方に今回のインタビューで残念ながら、ボクは非常に魅力的に感じてしまった。新店舗の開店を首を少しだけ長くして待とうと思う。

美女と野球

大きな買い物をした。

 

 

 

僕は神保町に寄ってとあるものを再購入した。つい先日のことである。

あるものが長い年月を経て再び僕が手にするべき、いや手にする運命にあるのだと勝手に解釈した。結果的に再び僕の元に舞い戻ってきた。

 

 

早くあるものとの再会に喜びじっくりと堪能したいのだがあいにく僕は急ぎだった。

帰宅までこの気持ちはお預けかな、そう思いながら下北沢へ向かう午後5時過ぎ。

友人のライブを観に行くのだ。観に行く使命にあるのだ。僕はすでに観に行くよと先方に言ってしまってある。急がねば。

 

 

 

ライブハウスに着いた。早く酒を飲みたい。昼から何も食べていないこの状態でお酒をいれれば少しは楽しくなると思ったからだ。あいにく今日はロックバンドのライブを見る気分でなかった。なんでだろう、自分でもわからないけどそういう日がある。

 

 

 

 

バンドが複数出るイベントだった。バンドの入れ替え中に物販を眺める。

CDが売られていた。別に買わなくていいか、そうして視線を外そうとした。

でもダメだった。素敵な女性がそのCDを持ったままこちらをじっと見つめているからだ。

僕はその女性を知っている。けれど話したことはない。

通勤通学で毎日顔を合わせる間柄のようなものでお互い認識しているが話す理由がないから話さない。

困った、非常に困った。僕は美女に弱いのだ。そんな瞳で見つめないでほしい。

嬉しいけれどやはり照れてデレデレするので無言で購入した。

お金は隣の人に渡した。ここまでまともに会話はしていない。

 

 

 

 

ライブを見終わって次のバンドまで時間がある。暇だ。またあの物販を覗く。

欲しくないCDを買った訳だけどまた戻ってきた。目当てはCDじゃない。

目当てに視線を移すとCDを持ちながらはにかみながらこっちを見ていた。

恥ずかしい。もう直視なんてできない。でも嫌じゃないんだ。こういうの。

 

 

 

 

やめて欲しいけどやめて欲しくない。無言でずっと見つめるのはズルいよ。

「わかったよ、もう1枚買うよ」僕はそう言った。初めて話しかけた。

すると彼女は右手を顔の前で横に振った。いいよ、大丈夫だよの意味だろうか。

結局会話のキャッチボールは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

大きな買い物をした。

 

 

 

 

 

 

楽しみにしていたあるものとは、リリーフランキーのエッセイ本だ。 

僕が中学生のときに読んでいた本だ。

僕に悪い影響を与えた素晴らしい本だ。

読み返してみる。

最低でくだらないことばかり書いてある。

最高である。そして素晴らしい。

 

 

タイトルが秀逸だ。「美女と野球」。

内容が美女も野球も関係ないところもいい。

美女と野球がすきだけれど、美女と結婚して野球選手になれば幸せなのか?

いやそれは違うかもしれない、と記されている。

とても共感出来る。 

 

僕は美女を眺めるのが好きだし、音楽も好きだ。

美人の嫁を貰って音楽を聴いていれば幸せなのか?

うーん、自分でもよくわからない。

 

 

本の表紙を眺める。まるで今の僕じゃないか。

塀に登っているのが僕。美女を見てニヤけている。

美女が持っているのはボールじゃないけれど

 

 

恋をしてるとかじゃあないんだ。

けどこんな感覚は懐かしい。

中学生ぶりかもしれない。

ドキドキできるなんて

僕もまだ捨てたものじゃないな。

 

 

 

 

この本は中学生の僕には刺激的だった。

ハタチを過ぎた今読んでも刺激的だった。

僕は中学のときから成長していないのかもしれない。

もしそうならとても嬉しい。

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「私は叫ぶ」の話

「あの人は死んだけど、皆の心の中で永遠に生き続けるよ」

ベタだけど語り継がれればそうかもしれないね。

 

 

3年前に芸人の桜塚やっくんが交通事故で37歳の若さでこの世を去りました。桜塚やっくんといえば10年前に大流行したエンタの神様という土曜の夜10時に放送されていたお笑い番組で有名になったお笑い芸人です。彼の死は多くの人に衝撃を与えました。間違えなく僕もその1人です。彼の訃報を聞いたとき悲しくなったけれどそれと同時に「桜塚やっくんの思い出」が記憶の何処かからバビュゥンと飛んできたんです。エンタが大流行していたとき中学生だった僕はワクワクしながらテレビに向かってみていました。僕の両親は少しお堅いところがありお笑い番組なんて見るな、ニュース番組を見なさい!みたいなつまらん人間だったのです。しかし当時絶大な支持を得ていた番組を中学生だった僕がニュース番組よりも魅力を遥かに感じていたのは言うまでもありません。だってニュースなんかよりエンタの神様を見た方が友達とも会話弾むもの。昨日の報道ステーション観た?なんていう中学生はいませんよ。マスターベーションならしてるだろうけど。ええそうですとも、土曜の夜は誰もいない部屋でコッソリ観てましたよ。特に桜塚やっくんのネタなんて当時中学生だった僕にはエッチで刺激的だったのです。ただでさえ小さ目のボリュームを彼の出番のときはさらに絞って笑い声を殺しながら観てたなぁなんて思い出して懐かしくなりました。こんな懐かしさに浸りながらツイッターを見てみるとですね、多くの人が彼に追悼の意をネットで発信していたんですよ。「ご冥福をお祈りします、貴方には沢山笑いを貰いました」や「本当に大好きだったのに亡くなられたのは残念です」などのいわゆるお悔やみツイートが本当に多かった印象を持ちました。そうするとこのような「お悔やみツイート」に対してこんな発言をする輩が出てきます。「たいして好きでないクセに何が悲しいだ、偽善ぶりやがって」とか「お前らやっくんが落ち目になったら見放したクセに亡くなったら憐れむなんておめでたいやつだな」みたいなコメントも多く見られました。実際に彼が大流行してお茶の間のヒーローになったのは10年くらい前の話でした。エンタの神様ブームの終了と同時に彼の人気は瞬く間に落ちていったのです。特に彼が亡くなる5年くらい前からはテレビから消えたといってもいいくらいで誰も桜塚やっくんなんていう言葉すら発信していませんでした。今回はこのネット上における「追悼VS偽善」戦争については多く語りません。新築のブログが入居初日で火事とか目も当てられないですし今回伝えたいことはそこでないからです。何がいいたいかと言うと、思い出というのは忘れ去られていても「終焉」によって蘇るのです。そしてそのときに蘇った思い出こそが1番の思い出なのです。

やっくんに対して追悼のツイートをした人のどれくらいが生前の彼に気を留めていたであろうか。僕自身は全く彼のことなんて考えていなかった。それが彼の死によって思い出だけが生き返ったのです。蘇った思い出こそがその人の等身大の姿であって人々の中で強く生き続けるのです。僕も亡くなったときは美しいカタチで人々の心に居たいと考えています。

 

 

10年以上も前の夏、当時小学生だった僕は夏休みを利用して新潟の祖父母の家に遊びに行くことが楽しみでした。僕は生粋のおじいちゃんおばぁちゃんっ子だったのと、そして東京に住んでいる僕からするとスーパーど田舎で自由に遊べるのは魅力的なコンテンツでした。海も川も山も近くにあり近所のおばぁちゃんが畑のスイカを持ってきてくれてスイカ割りをしたり夜は花火をして綺麗な夜空をみると満天の星々があり子供心ながら感動したものです。

そして夏のイベントとして忘れてはいけないのが夏祭りです。もちろん僕も楽しみにしていましたし、じじばば共は満足する孫もみれて大満足というwin-winの図式です。祖父母の家は上記の通り本気の田舎でサマーウォーズに出てくる田舎で最寄りのお店が車で片道30分以上、最寄りの自販機が片道徒歩20分という僻地ですからコーラ買うのもひと苦労。そんな僻地で大規模な夏祭りが開催されるわけもなく車で街の中心街へ繰り出します。そこの中心街ではとても大きなお祭りが開催されていました。あちらこちらに屋台がひしめき合い、夜には花火があり、多くの自治会が山車や神輿などで賑わっていました。

祖父母の家から車を出し、街の中心街へ向かいました。向かった先はそのお祭りが行われている場所から歩いて5分ほどの飲食店でした。何を隠そうその飲食店は祖母の姉妹が経営しているお店です。位置付け的にはスナックになるのでしょうが幼い僕でもわかるくらい「お洒落」なお店でした。全面が黒を基調としていてカウンターとボックス席がありお洒落なバーも謙遜ないくらいで、ビールも生とかじゃなくてハイネケンバドワイザーしかなかった。その店で何をするかというと、そのときは8月の猛暑日でしかもお昼過ぎ。じじばば、おじさんおばさんには直射日光に晒される夏祭りなんて拷問ですからクーラーの効いたこのお店をベースキャンプにして子供達を放牧してやとうという算段でした。こうなると自然に親族大集合になって皆の近況報告会場と化するのです。店内には僕家族と従兄妹家族とじじばば+じじばば姉妹とその親戚で構成されていました。この中で子供は僕と妹と従兄妹の2人の計4人。しかも僕はこの中で最年長かつ残りの3人と5つも歳が離れているので自然と僕がリーダーなのです。

 

そして店で近況報告と親戚顔合わせが終了しいよいよ夏祭りに出かけるのです。お祭り会場はもうお店の目と鼻の先、なんならお祭りの音色がもう聞こえてきます。お祭りに対して心をウキウキさせているのですが同時に緊張をするんですね少しですけど。

緊張するってなんだよ、純粋に夏祭りを楽しめばいいじゃんかって声が聞こえてきそうですがそうはいかないんです。上記に書いた通りこれは夏祭りの着ぐるみを着た、いい孫アピールコンテストなんですよ。ちょっといい孫アピールコンテストとかいうとあざとい感じしますけど、いかんせんこのシステムが良くない。まず1つ目はお小遣い制ということ。上層部のじじばばから500円を支給してもらい各自の判断で屋台に出向き初めてのおつかいヨロシクでお小遣いを使い店に戻る。2つ目はお小遣いを何に使ったかをみられるということです。店には多くの親戚がいますからね、変なことはできないのは最年長のお兄さんである僕は知っている。そして最後に「もうおにいちゃんだもんね」という言葉が僕を本気にさせるのである。そう夏祭りとは楽しみでもあるが戦いなのである、いかにじじばばにいい孫アピールできるかこれにて今後の査定も大きく変わるにちがいない。書いてて相当クズなクソガキなのですが僕は悪くありません。このシステムがいけないんです。このシステムが。ちなみにこう思ってるのは僕だけなんで他の妹従兄妹の3人はバカ面ぶら下げてお祭り行くんでしょうから僕の敵ではありませんよ。他の3人はおのおの大人と同伴でお祭りに繰り出すみたいですが僕は1人で行きます。するとじじばばーズの1人が「お、流石だねお兄ちゃんは」と言ってくれましたよ。そうですこれから夏祭りという戦場に繰り出すのです。

 

 

当時の僕の目論みというか最終的なビジョンとして「いかに貰ったお小遣いを有意義に使いかつそれで得たものをじじばば共に褒めてもらう」ものでした。そして店を後にしてもう目の前はお祭りの屋台でひしめいています。とても暑い日だったと記憶していますがお構いなしに屋台を吟味します。いかに上記の目的を遂行するか、そのためにいい屋台はないかと探しました。比較的大きなお祭りですから夏祭りといえばコレっていう屋台は大体ありました。金魚すくいはダメだ、飼うことができないから怒られてしまう。屋台のくじは絶対にいけない、高いゲーム機なんてあのくじの中に入ってなくて駄菓子屋で手に入るショボイおもちゃを手にするのが関の山である。射的も輪投げも残念な結果になるのはわかっている。たこ焼きや焼きそばは親連中がどうせ買ってくるからあまり意味はない。もう何が正解なんだろうって悩み始めてしまって優柔不断に屋台を行ったり来たりしていたら遂に「これだ!!」という答えが見つかったのです。それはアイスでした。アイスクリーム。ソフトクリームでなくコーンに乗った丸いカタチのアイスクリーム。これにしよう、そう僕は屋台の前で思いました。ソフトクリームならどこでも食べれるけれど何故かここのアイス屋台は色が異常にカラフルだ。今思えばブルーシールアイスなのかなぁと思うけれど、当時の僕はアイスの珍しさと上記の目的を見事果たしてくれるものに出会えたのだから即決でお金をお店の人に渡しました。その屋台はなんか繁盛していなかった。僕が頼んだオレンジ色のアイスは誰も頼んでいないからか、それともありえない超低温で保管していたからなのか、お店の人が銀のアイスをすくうやつを力任せでガリガリすくっていた。なんか霜っぽいのもめちゃめちゃついてた。そしてアイスを受け取る。コーンの上にアイスが乗っているがコーンとアイスの間にプラスチックのスプーンが添えられていた。僕はお金を渡した、300円だった。残りの200円で何が出来るわけでもないので貯金する。もちろん貯金するアピールは忘れないぜ。抜け目ないなぁ僕ちゃん。

 

 

 そんなこんなでアイスを持ちながらベースキャンプのお店に無事帰還。アイスクリームなら溶けていたかもしれないが上述のようにそれはもうアイスがカチンコチンですから全く溶ける様子も見られない。非常によろしい。一緒にじじばば共にいいお兄さんアッピールしてやろうじゃないの。ガチャリと店の重い扉を開ける。どうやら僕が最後の到着らしかった。従兄妹が何かよくわからないおもちゃで不満げな顔をしながら遊んでいるし親戚もしっかりと揃って僕の到着を待っていたようだった。

「遅かったねえ、でゆうすけ君は何を買ったの?」と祖母の姉が尋ねる。

「やっぱり僕はアイスクリームにしたよ。300円だったから余った200円は貯金するね」

「えー、ゆうすけ兄ちゃんずるい」従兄妹の1人が言う。すると祖母の姉が

「ふふふ、やっぱりお兄ちゃんだね。残りを貯金するなんてエライ‼ほれどんな味だか食べて皆に教えておくれ」

 

計画通りである。ここまで絵に描いた通りことが進んで非常に気持ちが良いものです。従兄妹共の嫉妬の視線を浴びながらそして親戚中の注目を浴びながら食べるアイスはさぞ美味しいのだろうなぁと思いながら皆のど真ん中に移動しました。ここなら皆から見える、ひと口食べたらみんなに少しずつわけてあげようかなぜなら「お兄ちゃんだから!!」

 

 

ここから先は今でもかなり鮮明に覚えています。真ん中に移動して皆の熱視線を浴びながらスプーンを掴む。そして引き抜く。人は事故などで死を予測するとこれまでの人生がコマ送りで思い出す、それを走馬灯のように走ると表現されます。そのとき僕は走馬灯のようにコマ送りで体験しました。上に散々書きましたがコーンとアイスの間にスプーンが挟まっていてアイスはもう溶けることのないカチコチの雪玉。必殺仕事人が悪人の首を落とすように、僕のスプーンがアイスの首を落としました。そこからはもうコマ送りで手元からアイスが落ちていく、オレンジのアイスが落ちていく、嗚呼もうアイスは床に向かって落ちていく、オレンジのアイスが背景の床の黒色と相まってオレンジが締まって見える、このコントラストは美しいなぁ、などとたった一瞬だけれど溢れ出るこの感情はなんでしょうね。

 

「べちょり」黒の床にオレンジのアイスが緊急着陸。現実は非情である。親族全員の視線を集めてひと口も食べることなくアイス落としたよ!!やったね

 

 

ま、今だから笑い話ですけどその現場の空気は最悪ですよサイアク。アイス落とした瞬間に真っ先に反応したのはやっぱり従兄妹でして速攻「うわっ」とか聞こえんのね。そんで次に反応したのは母と叔母な、「コラ、ぷぷぷ、そんなこといっちゃいけませんよぷぷぷぷぷ」とかわざわざ言いやがる最低ですよサイテイ。それを受けてねやっぱり僕ちゃんは所詮小学生のクソガキですからもう悲しいやら恥ずかしいやらでギャン泣きなんですよ。本気の大泣きね、もう穴があったら入りたい、現に店のソファにダイブしてクッションに顔うずめながら泣いてましたよ。そうしたら僕の祖母姉妹がもう困ってしまいましてね、事態の収拾に乗り出すんですよ。ここまで恥をかいたりプライドをズタズタにされたら変に気を使われる方が余計に傷つくのでそっとしておいて欲しいのですが、孫心ババ知らずとはこのことでめっちゃフォローしてきます。

「お店のアイスあげるから元気だしてね?ね?」とか「もっかいお小遣い渡すから泣くな男だろ」とか「落ちても上部分なら食えるだろ、結構美味しかったぞ」とか言われてね、そういう問題じゃないし最後の言ったの誰だよとか言い返す気力もなく泣いていました。もうショッキング過ぎてそこからどうなったかはあんまり覚えてません。

 

 

 

 

それからもう10年以上の年月が経ちました。僕が中学生になってから忙しくなりこうしてお店で集まって皆でワイワイすることも少なくなりました。僕を哀れんだ親戚のじじばばーズの何人かはどこか遠いところに行ってしまいました。今現在はもうお店は営業していません。とても悲しいです。もうこの話は随分昔なので時効かなぁって思ってるんですが最近聞いた話だと未だに従兄妹家族の中でアイスの伝説としてたまに語り継がれてるらしいです。基本的にアイス事件の目撃者はかなり年上なので僕が順当に歳を取れば僕より先にあの世に行くはずです。しかし従兄妹は僕より長生きする可能性が高い、しかも2人。なんか結構前に「ゆうすけ君の葬式で絶対にこの話するね」的なこと言われました。あいつら鬼です。絶対にあいつらより長生きしてやるからな。

それにしても従兄妹っていう間柄なのに死亡して思い出す思い出がアイス落とした話なんて酷いですよドイヒー。こいつらがまじで子孫に語り継いだらアホな先祖として永遠に心の中にいるじゃん。だっせー。これこそ本当の「がっかりだよ!!」である。